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国際交流基金賞 受賞記念講演会 アメリカにおける戦後・現代日本美術史の展開とグローバル美術史の興隆

by Alexandra_Munroe on January 15, 2018

国際交流基金賞 受賞記念講演会
アメリカにおける戦後・現代日本美術史の展開とグローバル美術史の興隆

Speech Commemorating the Japan Foundation Prize for the Postwar / Contemporary Japanese Art History in America and the Rise of Global Art History

originally published on wochikochi.jp
http://www.wochikochi.jp/topstory/2017/12/art-history-munroe.php

アレクサンドラ・モンロー
(ソロモン・R・グッゲンハイム美術館アジア美術上級キュレーター/
グローバル美術上級アドバイザー)

アレクサンドラ・モンロー氏は、戦後から現代までの日本美術を美術史の一貫した立場から実証的に研究し、数々の展覧会を企画、「具体」や「ネオ・ダダ」、「もの派」、そしてより若い世代の日本の現代美術家たちの国際的な評価を高めることに大きく貢献してきました。この功績を称え、国際交流基金はモンロー氏に2017年度国際交流基金賞を授与しました。
受賞を記念して開催された講演会「アメリカにおける戦後・現代日本美術史の展開とグローバル美術史の興隆」の内容に基づき、モンロー氏にご寄稿頂きました。

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東京藝術大学で開催された、アレクサンドラ・モンロー氏の国際交流基金賞受賞記念講演会(2017年10月20日)

イントロダクション

1980年代半ば、私が戦後日本の前衛美術の研究を始めた頃、アメリカの美術館で、このテーマの美術史的重要性や将来性を信じるキュレーターは、他にはいなかったと思います。それは、未知の領域でした。けれども、日本の戦後美術の歴史的正当性や新しい表現の活力に対して、私には熱い信念がありました。また、新たな視点こそが、日本のアートや広くモダンアートの見方や研究の裾野を広げていくのだと確信していたのです。

それは、孤独な道のりでした。が、先見の明のある美術館館長らが、私の企画を取り上げて下さり、大いに励まされました。また、1994年、「戦後日本の前衛美術:空へ叫び」展のアメリカ巡回を共催して下さったのが、国際交流基金でした。以来、日本の近・現代美術に対する国際的な関心はいよいよ高まっています。詳細な文献やレベルの高い議論、専門の美術館スタッフや優秀な研究者が増え、国際的なアートマーケットでの活発な動きもあります。大胆でクリエイティブな日本のアーティストたちはいま、私たちが生きる時代のグローバルな対話の一翼を担っています。そして、こうした共通の体験を最大限に活かしつつ、私たちの想像力を刺激し、グローバルな文化を形成するための新たな方向へと乗り出しています。長い道のりでしたが、ここまでたどり着いたのです。

A dream you dream alone is just a dream. A dream you dream together is reality.
このオノ・ヨーコの言葉にある通り、「ひとりで見る夢はただの夢。みんなで見る夢は現実になる」のです。

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モンロー氏が歩んできた道のりをスライドを交えながら紹介。

理論的背景

西洋では、どう「アジアの近・現代美術」を定義するかは、理論的にも制度的にも、簡単には解決のつかない問題を提起しています。そのために、研究や出版、美術館での収集活動の正当性を巡って複雑な論争があとを絶たず、美術館であれ、大学であれ、論議の対象となっています。

私が最初に研究を始めた頃から考えても、地政学的理解や理論的なシフトが出てくるにつれて、新たにモダニズムの地図を考え、モダニズムの歴史を解釈する動きが出てきました。世界のさまざまな地域に広がっていた運動や言説が、人類学者アルジュン・アパデュライが呼ぶところの「トランスナショナリズム」※1、つまり国境を越えた見方へと繋がってきたのです。

アパデュライの理論によれば、現代社会を規定しているのは、国家単位の文化的特色ではなく、異なる国々の人々を結ぶ知的文化のダイナミックな流れである、ということです。戦争や植民地主義、移民、ツーリズム、国際資本や貿易などが、文化的アイデンティを構成する上での社会的、地域的なマッピングをラディカルに変化させたのです。1960年代以降、加速するコミュニケーション技術や海外旅行、マスメディアの普及が、アートの流通経路を拡大させ、西洋と非・西洋におけるアーティスト同士の出会いにおいても、海外からの情報収集の意味でも、とてつもなく新しいチャンスを生み出していると言っていいでしょう。

この豊かにして複雑な、予測不可能な現象が、アパデュライが名づけた「さまよえる近代」※2 なのです。

東アジアを考えるなら、アーティストたちは長いあいだ、地域固有の文化を活用する一方で、国境を超えた先にある、より広い文化を取り入れ、刺激的な展開をはかってきました。ここで重要なのは、19世紀後半に始まる「西洋化」の当初から、芸術家も批評家も歴史家も、モダニズムのイデオロギーへの完全な同化には抵抗した、ということです。つまり、西洋の進歩主義的価値観が土着文化よりはるかに優れている、とするモダニスズムのイデオロギーを完全に受け入れたわけではなかった、ということです。

1960年、思想家の竹内好は、「方法としてのアジア」と題する講演を東京で行いました。竹内はそこで、明治日本の近代化と中国の近代化を比較しています。つまり、日本の場合、1868年以来、西洋との直接の対話から生まれ、「単純な二項対立」の思想のもとに近代化が進んだわけですが、中国では1912年の清朝崩壊や1919年の五四運動を経て革命と内部抗争の果てに近代化が始まったわけです。

アジアの近代化の目的が世界の中での平等を獲得することにあるのだとすれば、その文化的価値を普遍化せねばならない。これが、「方法としてのアジア」※3 の発想です。

過去35年にわたって、私は、竹内の「方法としてのアジア」の理論に学んできました。日本や中国、韓国の美術をグローバルな文脈で考察するという私の研究に当てはめ、応用してきたのです。

キュレーターとして、学者として、また美術館のリーダーとして、展覧会を企画し、学術研究に寄与し、教育の普及に努めながら、私は常に現状打破に挑戦してきました。私たちはいくつもの難関を突破してきましたが、モダニズムの西洋中心主義を拡大して、西洋の規範にあてはまらない複数のモダニズムの歴史を取り込んでいく、という点では、まだまだ多くの課題が残されていると思います。

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キュレーター、学者、美術館のリーダーとして挑戦を続けるモンロー氏

篠原有司男

1982年、日本での学生生活を終えてニューヨークに戻った私は、ジャパン・ソサエティ・ギャラリーの館長ランド・カスティルのもとで、キュレーターとしての仕事を始めることになりました。ジャパン・ソサエティは、アメリカで日本の芸術や芸能、政策、教育といった分野で中心的な役割を担う機関です。場所は国連の近くで、建築は吉村順三の設計。ギャラリーでは、法隆寺宝物展など、日本から借りてきた美術品の展覧会が評判でした。

ところが驚いたことに、私の最初のプロジェクトは、ニューヨークに住む日本の現代作家、篠原有司男の個展だったのです。タイトルは何と、「東京バズーカ」、東京からやってきたロケット弾といったところでしょうか。

最初にチャイナタウンの北側にあった篠原のスタジオを訪れたとき、ものすごい光景を私は目にしました。半裸の芸者がオートバイにまたがる巨大な彫刻は、オブジェやジェリービーンズが貼り付けられ、たいそう派手なものでした。幅10メートルはあろうかという絵画には、スパイダーマンやブロードウェイ、コニーアイランドのイメージが踊り、けばけばしい広告のよう。また、『源氏物語』絵巻を歪曲して、エドワード・ホッパーの寂しげな絵画作品《プロスペクト通りの日差し》をミックスした、屏風仕立ての6双パネルもありました。

1952年に芸大に入学した篠原は、油絵を専攻します。が、60年には、日本の過激な「前衛集団ネオダダ」の中心メンバーとしてその名を轟かせるのです。彼はかつて、こう私に語ってくれました。子供の頃、アメリカの兵隊にもらった飴玉の包み紙が唯一の色彩であり、それがどれほどカラフルで、別世界へと誘う魔法の絨毯に見えたことか、と。篠原の60年代初頭の絵画や彫刻に寄せ集められたイメージの数々、例えば、アメリカの国旗やデュシャンのチェス盤、ラウシェンバーグの作品《コカコーラ・プラン》などは、日本の敗戦がもたらした文化的喪失に抗うものだったのでしょう。伝統から解放された、この精神の自由こそ、磯崎新がいうところの「歴史の死」であり、戦後日本で真に驚嘆すべき前衛文化を生み出す原動力だったのだ―私はそう実感しました。

私はその時、決意したのです。自分の今後の研究や展覧会は、戦後日本の前衛美術を専門にしよう、と。そして、その歴史を、より広い、国際的なモダニズムの文脈の中に位置づけてみよう、と。然るに、私がニューヨーク大学の大学院に入った1985年当時、戦後日本の前衛美術というテーマに関する英語の文献は、ほぼ皆無に等しいものでした。コロンビア大学の日本美術研究所の学部長は、私の研究テーマを「異端」と呼んだほどです。

草間彌生:回顧展

それでも私は戦い続けました。1988年には、ニューヨークに新設された国際現代美術センターの招きで、開館記念展を担当することになりました。一年後に実現されたのが、海外初の草間彌生回顧展です。それは、センセーションを巻き起こしました。草間のアートが、ヨーロッパ、アメリカ、日本の戦後前衛美術の歴史にどれほど寄与したかを再考し、再評価への動きに火をつけました。

この展覧会では、草間の絵画シリーズ「無限の網」を当時のミニマルアートとの関連で紹介しました。「集積」の彫刻シリーズは、美術批評家ルーシー・リッパードが名づけた「エキセントリックな抽象」の文脈で解釈しました。また、1965年にアムステルダム市立近代美術館で開催された歴史的な「ゼロ」展における草間の位置を考え、さらに草間のハプニングについては、アメリカのプロテストアートやフェミニズムの観点から紹介しました。そして、草間自らが語る「強迫観念のアート」については、作家自身のユニークな深層心理に着目して解釈することに努めました。

このセンターで出会ったのが、富井玲子さんという非常に優秀な研究者でした。草間展以来、私たちは、いくつものプロジェクトで協力し合いました。新分野におけるパートナーとして、私たちが気づいたのは、これまでにない学際的アプローチの必要性でした。日本の近・現代美術が国際的テーマとして、正統な学問や批評のテーマとなるためには、おそらく、日本の近・現代美術そのものを新しい研究分野として確立することが必要なのではないか、と気づいたのです。

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モンロー氏は海外初となる草間彌生回顧展を実現

戦後日本の前衛美術:空へ叫び

日本の前衛は、その発生の当初より、いかに自分たちの文化活動を保存し、変換し、世界に広めようか、と格闘していました。一見、西洋の引き写しに見える作品でも、アーティストたちは、西洋文化に盲目的に同化することをよしとはしませんでした。「戦後日本の前衛美術」展は、戦後日本の、昭和から平成初期へと続いた時代の政治社会や文化史に刻まれた日本の前衛のパワフルな様相を紹介したものです。

展覧会は、具体や実験工房、ネオ・ダダやハイレッドセンター、また、もの派など、戦後美術のラディカルな実験とその変遷を考えるもので、絵画、彫刻、パフォーマンス、ビデオ、フィルム、インスタレーション作品など、100人を超える作家の200点余りの作品を紹介しました。ナムジュン・パイクや李禹煥(リー・ウーファン)といった韓国人の作家、オノ・ヨーコや荒川修作など海外在住の作家を含め、国際的なアートの動向との関連から戦後美術のダイナミックな流れを紹介することができました。

この展覧会はアメリカで最初の戦後日本美術展でしたが、ニューヨーク・タイムズ紙で開幕直後、次のような展覧会評をいただきました。

「空へ叫び」展は、多くの疑問に答えるだけでなく、より多くの質問をしたくなる展覧会だ。単に西洋の観点を使って日本の現代美術を読解したとしても、何の意味もないことは疑いもない。これまで日本の現代美術は「類似のアート」だと言われてきたが、たとえそうだったとしても、極めて独自な思想的立場に基づいた「変容のアート」だと言っていい。 …「空へ叫び」展において、繰り返し繰り返し、ときに目をみはるような方法によって探求されているのは、生きる目的であり、畏怖、静謐、あるいは筆舌に尽くしがたい空虚が表現されている。

YES オノ・ヨーコ

1998年、私は古巣のジャパン・ソサエティに戻り、ジャパン・ソサエティ・ギャラリーの館長に就任しました。そこで企画した最初の展覧会のひとつが、「YES オノ・ヨーコ」展です。ジョン・レノンは「ヨーコは世界で最も有名な無名アーティスト」とよく言っていたものです。私は当時、彼女自身が重要なアーティストであり、その意義を世に問う時期がいよいよ来たのだと確信しました。

オノ・ヨーコは、1933年、日本で生まれ、50年代半ば以降はニューヨークに住んでいます。国際的に認められたアーティストであり、詩人であり、音楽家です。「YES オノ・ヨーコ」展は、そんな彼女を、異なるメディアを横断して可能性を広げた、新しい表現の先駆者として位置づけたのです。

オノの作品は「芸術とは人生なり」というモットーを標榜したダダイストの思想を一つのインスピレーションとしています。このモットーは、50年代のニューヨークで、マルセル・デュシャンやジョン・ケージが信奉したもので、高尚な芸術と卑俗な日常生活の間の境界線を打ち破ることを目的としていました。オノは、こうした感性からさらに飛躍して、アートの行為とアートの体験の両方における実践者としての「心」の重要性を叫びました。彼女の初期のスコアやインストラクションは、その多くが『グレープフルーツ』という伝説的な作品集に収められ、1964年に出版されました。これは、言葉やコンセプト、人々の参加がアートの一番大切なものであることを明確にした作品で、フルクサスやコンセプチュアルアートといった国際的な運動と主張をともにしています。

オノは夫ジョン・レノンとともに、多くの映画やレコードを製作しましたが、マスメディアを利用した世界平和のキャンペーンでは、社会の変革や心の変革という類い稀なるプロセスの中に大衆を引き込んでいます。さまざまな新種のアートの方法論で自らのアイデアを表現するオノは、ニューヨーク、東京、ロンドンといった60年代から70年代にかけての前衛の中心地で、革新的かつ挑発的なアートを生み出す、まさにパワフルな存在でした。

「YES オノ・ヨーコ」展は、2000年から2003年にかけて、北米、日本、韓国の13カ所の美術館を巡回し、100万人を超える観客を集めました。東京都現代美術館での展示は、オノにとってはお里帰りとなりました。以来、世界の主要美術館で数多くの個展が開催され、ヴェネチア・ビエンナーレでは、生涯業績部門の金獅子賞を受賞しています。「YESオノ・ヨーコ」展のカタログは、ご協力いただいた富井玲子さんの詳細かつ精緻な調査のお陰で、オノ作品のあらゆるジャンルを網羅した、いわば教科書となっています。展覧会はオープンされればクローズされてしまうものですが、カタログは生き続けるのです。

グッゲンハイム美術館 展覧会のプロジェクト

2006年、グッゲンハイム美術館は、欧米の近・現代美術館では初の試みとして、アジアを専門とする学芸部門を設立し、私が専門のキュレーターに任命されました。アジア地域の旺盛な創作活動や、アジアの現代美術を取り巻く活発な論議が、21世紀の文化機関にふさわしい美術館のありようを要求したと言えます。

グッゲンハイムのアジア美術イニシアティブでは、まず、展覧会企画や作品収集、関連プログラムに、グローバルな見方や新たな批評的思考を導入することで、グッゲンハイムの役割を広げることをめざしました。あわせて、新しいグローバルな美術史の最前線で活躍する仲間たちとの国際ネットワークを立ち上げました。私たちが意図したのは、西洋美術のカノン、つまり規範を攻撃することでも、打倒することでもなく、むしろ、欧米の規範に問題提起をすることでした。

2006年以降、私がグッゲンハイムで企画、あるいは監修したアジア関連の展覧会は11にのぼります。欧米の同規模の美術館と比べても群を抜く数字でしょう。こうした展覧会や出版物、関連プログラムによって、これまで長い間見過ごされていたテーマに対する関心が、美術館、大学を問わず急速に高まり、国際的にも脚光を浴びるようになっています。

この新分野への参入や活動を促すという点で、グッゲンハイムの活動は、他の美術館を刺激し、大きな影響を与えてきたと思います。中でも最大の功績は、視点の変化でしょう。すなわち、西洋の主要美術館がアジアのアートやアーティストを認め、展示や収集に積極的に関わることがいまや緊急課題となったのです。私たちの日々継続する努力が、グッゲンハイム自体のDNAを変えてしまったのです。

ところで、グッゲンハイムのような欧米中心主義の美術館に「アジア」という地域的な枠組みを持ち込むことの意義は計り知れません。そればかりではなく、これは緊急かつラディカルな介入でもあります。ですが、現実には、アジアを全部取り上げるということではありません。それは、不可能な試みですから。

私たちはむしろ、李禹煥(リー・ウーファン)や蔡國強(さい・こっきょう)ら重要作家の作品や、「具体」や中国のコンセプチュアリズムといった代表的なアートの動きを意識的に取り上げ、そうした作品を国際的なアートの文脈の中でじっくりと見せています。

私たちの研究対象は、アジアの地元で活躍する作家も、海外で制作する作家も含みますが、言語や文化を共通項とみなすよりは、制作の態度に共通点を見出せると言えるかもしれません。私たちは、グローバルでインタラクティブな、相互に影響し、交錯しあう歴史の中で、モダンアートやコンテンポラリーアートを捉えています。なぜなら、アートとは幅広く、また相互に関連し合うさまざまな立場や言説だからです。異なるものの出会い―それがこれまでとは異なる視点となって、私たちの共通体験の意味を考えなおすよう促してくれるのです。

今日、人類は空前絶後の変化を体験しています。ジェット機時代の移動や、インターネットやソーシャルメディアによるラディカルな通信技術は、国境の概念がもはや廃れたものであることを教えてくれます。文化とは、もはや国ごとに区分されるものではなく、トランスナショナルな共同体なのでしょう。空間や時間の概念もまた、瞬間的なコミュニケーションが可能な宇宙では、あらたに構築しなおさなくてはなりません。しかし、こうしたグローバル社会にあっても、自分を省みるアイデンティティの問題や、社会的抵抗、差異をめぐる革新的なアートは力強く発言しています。そんな中で、次に来るものは何かという点で私が期待し、注目するのは、いつものことながら、日本なのです。

藤森愛実氏の翻訳に基づく


※1 Arjun Appadurai, Modernity at Large: Cultural Dimensions of Globalization(Minneapolis: University of Minnesota Press, 1996); Arjun Appadurai, Globalization(Durham, N.C.: Duke University Press, 2000); Homi K. Bhabha, “Locations of Culture,” in The Transnational Studies Reader: Intersections and Innovations, Sanjeev Khafram, and Peggy Levitt (ed.) (New York: Routledge, 2008); Andreas Huyssen (ed.) Modernism after PostmodernityNew German Critique, 99 (Fall 2006); and Andreas Huyssen, “Geographies of Modernism in a Globalizing World,” New German Critique 34, 1 (Winter 2007).
※2 Arjun Appadurai, Modernity at Large.
※3 Takeuchi Yoshimi,”Asia as Method,”What is Modernity? Writings of Takeuchi Yoshimi, Richard F. Calichman (trans. and ed.) (New York: Columbia University Press, 2005), pp.149-65.

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Alexandra Munroe with her exhibition catalogues,2015.
Photo by John Bigelow Taylor

アレクサンドラ・モンロー
米国生まれ。ニューヨーク大学で日本の戦後美術と政治を対象とした研究論文で博士号を取得。アジア美術を専門とする研究者、著述家であると同時に、この世代の最も重要なキュレーターの一人として国際的に認知されている。第二次世界大戦後の日本美術を総体的に検証した「戦後日本の前衛美術:空へ叫び」展(1994-1995)はアメリカを巡回し高く評価された。2009年にグッゲンハイム美術館で開催した「第三の心:アメリカ人アーティストが見つめたアジア、1860-1989」展では、アメリカのモダニズムの発展に対する日本をはじめとするアジアの影響を考察し、全米人文科学基金から第一回長官特別賞を受賞。

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